私が管理人です。




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京王帝都5000系第二の人生
京王5000系メモリアル撮影会


■順番が消える(2004.11.19)
 
先日、昔の私鉄車輌が引退するとのことで、撮影会(京王帝都5000系第二の人生)に行ってきた。鉄道マニアと言われるどちらかと言うと変わり者と思われてしまう彼らのマナーは、それはそれはすばらしいものだった。車輌を前に入場した100人余りがカメラを手に思い思いのアングルで撮影するわけだが、やはり当然絵になる場所は車輌正面であって、ここに人が集中する。場所争いになるかと思いきや、まさに譲り合いである。「お先にどうぞ」はもとより、良いアングルを教えあったり、脚立を貸す者も現れた。「譲り合いをお願いします」と最初は声をかけていた係員もその様子に不要と感じ、何も言わなくなった。逆にこの日のために準備してきた係員を労う声がかかった。もっと撮影に集中してもいいのにと思うくらい相手のことを思いはからう集団であった。秩序と「順番」を重んじる人たちだったのだ。
 絶対数の少ない物を多人数で争う場合、各人に優劣をつけて獲得権利を割り振らなければならない。昔は殺し合いで人数を調整したが、今は人類みな平等であるし、殺人は禁止されているから、並びの早い順、つまり「順番」で権利を獲得することでみな納得するようになった。しかし「順番」とは誰が考えたのだろうか。通貨と並んで、社会の重要な構成要素とは言えないか。
 町で見かける順番待ちは見苦しい。安売りや限定販売、デパートの開店前とあらゆる場面で気軽に作られる行列に順番は存在する。だが割り込みトラブルが絶えない。場合によっては傷害事件にもなる。順番を破ることほど、これまで平和的であった人たちを怒りの方向へ駆り出すものはないのではないだろうか。順番は平和な社会生活を営む上でなくてはならないものであるし、絶対に守っていかなければならないものであることがわかる。
 複数の電話ボックスの前に並ぶ場合、それぞれの電話ボックスの前に列を作るのでなく、列を1本にして先頭の人が、空いた電話ボックスに順番に入るというものがあった。NTTが提唱したことからNTT方式と呼ばれる。当時は電話ボックスに限らずこれが普通であったではないか。「順番」の生み出す「並びの文化」とでも言おうか。だがコンビニやスーパーのレジでは見かけない。適当に空いた列に割り込むから、最初から並んでいた者が馬鹿を見る。今では駅やサービスエリアのトイレで唯一見られる程度か。順番待ちなどなく、好きなときに好きなだけ電話のできる携帯電話の普及は、我々に順番を教えてくれた公衆電話を廃止へと追いやる。



■本来の自衛隊(2004.10.24)

 ここしばらく続く国内災害では自衛隊が良い働きをしている。特に今回の新潟中越地震では、北方へ訓練中のヘリコプターがいち早く予定を変更し、新潟へ急行したと聞く。以前から国内災害への遅れを指摘されてきた自衛隊とは思えないその対応の早さには心から拍手したい。ひねくれた見方をすれば、「イラク派遣に人を使ったために、国内隊員が足りないではないか。災害になっても来ないじゃないか!」と言われないためのものかもしれない。これまで自衛隊の行動権を拡大しようと企む者は決まって、国内災害復旧対応の必要性と自衛隊を結びつけて、
自衛隊廃止論を唱える者を牽制してきた。実際にそうであり、自衛隊の国内における災害時の貢献は計り知れない。
 小泉首相が国連常任理事国へ日本参加を妙に積極的に進めている。街頭のサラリーマンへのインタビューでも、「日本が世界貢献をきっちり行なうためにはいいじゃあないですか。」とまるで無責任な回答。愚かな国民のこうした意見が小泉の追い風になっている。常任理事国になった場合、日本は憲法改正や自衛隊の定義変更を求められることは間違いなく、名実ともに「自衛隊」が「日本軍」になってしまうことも間違いない。
 自衛隊員一人一人の考え方は様々であり、戦争がしたくて入隊した者もあろうが、危険な災害地での救助活動を真剣に行なう彼らは人命救助に真に命をかけている。そんなピュアな彼らに自衛の名目の下、他国の人を殺したり建物を壊すなどの行為をさせたくない。例によって「自衛隊は侵略はせず世界貢献をする。自国を守ることに変わりはない」として自衛隊の拡大解釈をすすめる者たちに管理人は強く反対し、主張する。「自衛隊は他国から自衛するのではなく、自国を自衛する部隊なのだ」と。


■企業の倫理はどこへ(2004.10.9)
 
UFJ銀行が金融庁の検査妨害をしたことが判明し、一部業務停止命令を受けた。不正取引がばれるのを恐れて検査前に証拠を始末した容疑であるが、銀行が書類を破り捨てるなどあまりに恥ずかしい。ブレーキの効かない車を売って隠した三菱自動車のように人の死を直接招くものではないかもしれないが、一般企業は銀行のいいなりである点を忘れてはならない。どんなに大きな顔をした大企業でも、銀行には頭が上がらない。金をネタに企業をあやつる銀行が、会社ぐるみで犯罪をするのであれば、そこから金を借りる企業が健全なわけがない。三菱自動車の事件にしても、問題発覚は銀行の融資に少なからず影響を与えることから隠蔽を思い立ったのかもしれない。
 銀行はいまや倒産、良くても合併や統廃合の危機に追われ、社員は大量解雇に備え、その引き出しには転職雑誌が入っているかもしれない。解雇の危機に怯えながらまともな業務ができようはずもなく。その反面競争が激しいものだから、なりふり構わず、これまで「ゴミ」と読んでいた一般客からも「小銭」を集めようと、ATM窓口の時間を拡大したり、手数料をなくしたり。見てくれのサービス向上のしわ寄せは就業環境の悪化と給料削減とサービス残業と...。社員の苦労はいかなるものであろうか(役員はいまだ暴利をむさぼっているようだが)。
 それで銀行としては生き残りをかけてさらに客をひきつけなくてはならない。苦し紛れの大決断がUFJ銀行の24時間ATMであろう。それでも「小銭」が足らない。融資をしようにも大企業は景気が悪いし、中小企業は焦げ付くリスクがあることから、世間知らずの若者を狙った個人融資を始めたわけだ。返済できなければ親や保証人を地獄の底まで追い回す。これ、銀行がこれまで軽蔑してきたサラ金と全く変わらない。
 銀行がここまで堕落すると、その子分である一般企業の倫理などあてにならない。銀行から金を借りるためなら例え人殺しでも何でもする。


■テレパシーのはじまり(2004.8.29)
 管理人の天敵携帯電話を利用するのはNGとしても、Edyや来年のSUICA、ICOCAの利用拡大はある意味、人間の1万年に及ぶ基本生活そのものの転機かもしれない。
 昔から相手の気持ちがわかりたいとか自分の気持ちをしゃべらずに伝えたいといった願望がある。超能力で言うところのテレパシーであるが、カードや携帯で購入意思が伝わるなら、そのうち会話もこれらでできるに違いない。決済は非接触カード、会話はメール、車のドアもキーレスエントリーで近づくだけで開く時代である。ここは思い切ってすべて体に埋め込んでしまえば、会話がいらなくなる。課題は脳で考えたことをそれらに表現することであるが、すでに思ったことをコンピュータへ書き出す技術は研究中と聞く。どこかの大学教授が自らの体にセンサーを埋め込んだところ、教授の通る廊下だけが照明が灯り行き過ぎると消える。ドアに近づけば鍵が開き、入ると施錠する。何と奥さんにまで埋め込み,、簡単な意思疎通もできるらしい。これが実現すれば、体ひとつで何でもできる。
 レジに近づくだけで清算完了、改札フリーパスはもちろん。会社の報告書も学校の試験も座って考えるだけ、選挙の投票や納税、役所の面倒な手続きもすべて自宅でできてしまう。
 何といってもなかなか言い出せない好きな相手への告白も無言でできる。もちろん断りの返事も無言でもらえる。


■悔しさの代償(2004.8.8)
 「国民性」「民族性」といった言葉でその国の個人の性格をまとめるのは良くない。しかしそれにしても東洋人の純朴で真面目でおとなしい性格を唯一残す国民というイメージが中国の人には強かった。中国の人の礼儀正しい部分をずるがしこい日本がうまく利用したのが中国侵略の歴史ではないかと思う。
 今回のワールドカップで騒ぎを起こした人たちは、あまりに考えのないその行動が、ますます日本がアジアへの謝罪をしない口実を作ってしまったことに気付かないのか。さらに頭の悪い日本の国民はこの報道を見て、「戦前に何があったか知らないが、こんな中国人に謝る必要はない」と思うことであろうから、この報道を強調すればさらに日本の右傾化を進めやすくなる。まさに日本の思うつぼである。
 まして君が代へのブーイングや日の丸を燃やす行為をスポーツの勝ち負け程度で持ち出してもらっては、本当に戦時日本のせいで気の毒な目にあった人たちに非常に失礼である。今後同じ抗議活動を中国やアジアの人たちがしても、「あ〜、以前ワールドカップで中国が負けた悔しさでやってたのと同じだ」と思われてしまう。国旗を燃やす行為自体の良し悪しはともかく、アジアすべての国がこれまで日本へ対して行なってきた抗議活動の深い意味が失われてしまった。
 管理人は、日本がアジア諸国に侵略をした時代に生きていないし、歴史資料の書いたままに従うよりないが、中国や韓国他アジア諸国がこれまで必至に日本に訴えてきたことが、こうしたつまらないことで無駄にならないことを願うばかりだ。


■ちょっと待て電子マネー(2004.8.2)
 携帯電話にEdyカード機能を取り入れた、「おサイフケータイ」が話題である。食事をけずってでも携帯電話の通話料は惜しまない若者に、電子決済の気軽さをくっつけて売り込むことで、電子マネーマーケットの拡大は必至である。来年には同じ技術を使ったJRの「SUICA」、「ICOCA」も採用され、電車の改札口も携帯電話で通れるようになる。
 さらにSUICAは近畿関西圏のJR西日本(これまではICOCAのみ)でも利用できるようになったし、JRグループの売店だけでなく、ファミリーマートへも採用を始めた。加えてEdyもコンビニのampmだけでなくグループの商店やインターネット決済にも利用できるようになるなど、利用範囲拡大も著しい。
 ただここで考えてほしい。便利なものには必ず問題がある。例によってNTTドコモはその辺の問題点を何一つアナウンスせずに便利さばかりで売りこもうとしている。
 銀行のカードがそのまま使えるという「デビットカード」をご存知であろうか。電子マネーの原点とも言えるが、これが普及し
ない。盗難や不正使用をされた場合、直接口座が全額盗まれる可能性があり、カード会社を介するクレジットカードよりも危険性が高いからだ。対して、SUICAやICOCA、Edyは利用したい金額だけを独立した専用カードにチャージ(振り込む)する。またカードには個人を特定する情報は一切書かれていない。だから、万一紛失や盗まれてもチャージ金額だけあきらめれば済む。この点が普及に通じたと思う。
 しかしこれを携帯電話と合体することで、便利にはなろうが、これまでのセキュリティメリットはなくなったのではないか。iモードで専用サイトを通じてチャージするから銀行口座がそのまま悪用されるわけではないが、口座接続情報を推測するに充分な個人情報が携帯電話には入っているわけだから。
 普及から10年してようやく電車内の利用マナーを警鐘するCMを出したNTTドコモのやることだから、こうしたことに気づいていても問題になるまで何もしないだろうが。


■選挙です。(2004.6.28)
 2週間後は参議院選挙。やはり投票率の低下はかなり深刻で、全国平均が50%を切った前々回の記録更新もありうるようで。投票率を上げるだけが本当の目的であれば、インターネットでの投票をもっと検討すべきであろう。ついつい買ってしまうインターネットショッピングと同じで、ついつい1人で2〜3人分(?)投票してくれるかもしれない。携帯電話で投票した人には着メロプレゼントというのもいいかもしれない。アダルトサイトに「7月11日参議院議員選挙」なんてバナー広告が貼ってあれば、「ヌードもいいけど選挙もね」的頭の悪い人たちが投票してくれるかもしれないし。でもそんな人たちの「清き一票」が必要だろうか。
 自治体では、アイドルコンサートやサイン会、局アナトークなど、頭の悪いイベントで、頭の悪い無関心な国民を釣ろうと必死である。管理人のアダルトサイト利用案は極端だが、目的の違う人の票を集めても意味はないと思う。投票所の記入場所で初めて候補者や政党の名前を見て決める人も、本当の投票とは言えない。そんな人たちは記入所で目に付いた名前や政党を書く程度ではないか。行くだけましという意見もあろうが、管理人はそうは思わない。むしろそんな人は投票を辞退すべきと考える。気分やその場の雰囲気で候補者を決められては困るのだ。
 ちなみに昔から、投票率が低いと与党、投票率が高いと野党に有利と言われる。野党らしい野党もなくなってしまったけど。本当に関心のある人だけ行きましょう。CMを見てサッカー選手の中山雅史さんや女優の白石美帆さんが好きで関心を持ったという人は選挙へ行かないでください。


■知らぬ間に自由が(2004.6.5)

 年金改革法案が成立してしまった。相変わらず国民の真意を無視した法案の成立が続く。年金法案については日常生活に直面することであるから、反対意見がもっと飛び交うかと思っていた。議員の年金問題を持ち出した際にこれはひとつの転機と思った。払った払わないの低レベルな潰しあいが報道されるにつけこんなことが国会で話し合われることに情けなさを感じてはいたが、これをきっかけに政治に関心のない国民が興味を示せば、それはそれで効果的であるし、法案は与党による賛成多数での通過はやむをえないとしても、もう少し盛り上がるかと思った。しかし総選挙と年金問題潰しを目的としたとしか思えない急な総理訪朝が話題をごまかし、そこへ時期を合わせたようなイラク邦人死亡と三菱自動車リコール問題の報道と、さらに決定打は小六の犯罪者がすっかり話題をそらしてくれた(これも時期を合わせた?)。マスコミもしっかり国民の目をそらすことに協力してくれているようだ。
 国民保護法案を知っているだろうか。誰も知らないだろう。有事に備えて国民を守るため、政府が日頃の備えをしてくれようという調子のいい文面は大嘘で、この悪法を理由に国民の資産没収や言論弾圧、行動の拘束が法的に行われてしまう恐ろしい法律。これが誰も知らぬ間に...
 実のところ今の成立している法案を駆使すれば、簡単に国民の自由を奪える。国民の基本的人権やプライバシーを潰してもいい法律もしっかりあるのだ。ここへ来て憲法まで改正しようとしている。幸いにもこれらを利用しないのもまた政府の怠慢なのか。これらが行使されないうちに廃案に追い込むことはできないものだろうか。


■携帯電話の二の舞(2004.5.29)
 デジタルカメラが急速に普及している。小型化、低価格化に加えて、これまで最大の欠点とされていた電池寿命も飛躍的に延び、非常に身近になった。ちょっとした日常の光景から、決定的なシャッターチャンスまでいろいろな場面に備えてデジカメを携帯している方も多いのではないだろうか。
 これはカメラ撮影全般に言えることであるが、肖像権の保護にはくれぐれも気をつけなければならない。建造物、風景、人物あらゆるものに肖像権が適用される。それらをむやみに撮影することは、場合によっては多額の賠償を求められることにもなるから気をつけられたい。携帯電話が企業利益の優先によるばらまきで、マナーの整備が行われないまま野放しになったのと同様、デジカメも利用注意がないまま大量に販売されていることが懸念される。撮影禁止の場所での隠し撮りや、撮った撮らないでのトラブルの原因になりかねない。すでにカメラ付携帯がデジカメの利用環境をマナーレスにしてしまっているが、画質の高い専用機で同じような使われ方で撮影され、インターネットをはじめとするメディアへむやみに公開されるようなことがあれば、撮られた側はもちろんプライバシーをめちゃめちゃにされるが、撮った側も一生かけても償えないほどの賠償を求められることになる。撮影は必ず相手の許可を得ること。これは言うまでもない常識である。

*ちなみに当サイト、姉妹サイトの撮影画像は、すべて何らか説明のできる許認可を受けている。


異文化の心得(2004.3.29)
 
中国の女子十二楽坊が相変わらず話題だ。アルバムを次々と発売し、その美しい音色はさらにレパートリーを拡げ、その勢いはおさまらない。
 日本の代表的な歌として、「川の流れのように」や「地上の星」など、日本人が喜びそうな曲を演奏する。いすれもそれはそれは美しくアレンジされ、聞いていて心地よい。しかし、一曲だけこれは違うのでは?と感じた。「いい日旅立ち」である。
 管理人の主観だから気にしないでほしいが、「いい日旅立ち」のイメージはやはり日本の美しい光景、特に夕暮れ時のイメージが強い。女子十二楽坊がこれを演奏すると音色はいくら綺麗でも、イメージは中国4000年、揚子江のほとりを日差しを浴びながらゆっくり流れる小舟のイメージである(管理人の偏見かもしれない。そう感じたのだ)。ここで言いたいのはいくら美しい音色の中国伝統楽器をしても似合わないものがある。それがどんなに良くても、どんなに美しくても受け入れられない、容認できないものが、必ずあるはずである。これまでと逆転して異国文化を受け入れる側となった今の日本で初めて感じたことである。
 何でもかんでも流行病のようにもてはやし、プライドもなく異国文化を取り入れてしまう日本の習慣も考えものであるし、かといって異文化をすべて拒否することも正しくはない。が、異国に自国の文化を導入する際に、そこの国民がどのような感情でそれを受け入れるのかを今一度考える必要がある。中国への商業進出を世界各国が狙っており、今後有無を言わさぬ強硬な進出をする国も出てくるであろう。日本はこれに負けじとただただ進出するのでなく、隣人として、良き理解者として、中国を思いはかりながら交易をしていく余裕が欲しい。

オウム再現ドラマ(2004.3.18)
 
オウムが残した悪しきものと言えば、サリンによる同時テロの他数々の凶悪犯罪と思うかもしれない。しかしながら、オウムが残した恐ろしいことは、実はマスコミを暴走させた点と、それを当然と考える人心を生み出した点である。
 人それぞれ、「彼が犯人だと思う」。「いやこいつが怪しい!」と心で思うことは自由である。オウム真理教の教祖に対して有罪無罪を個人が心の中で確信することも自由である。しかしマスコミという公共の機関が、一被告の判決前に、それも実名で確定していない犯行疑惑をいかにも「事実です」と決め付けて全国報道し、視聴者の憎しみばかりをただただ煽り、一方的に被告を極刑に持っていく姿は、報道の自由と言えるのだろうか。
 ここで言っておくが管理人はけっして信者でもないし、こんなくだりを被害者や遺族が読んだら放っておかないかもしれない。
 管理人が言いたいのは、マスコミが事件の凶暴性や猟奇性を言い訳にして、過大に人心を扇動し、事実をゆがめかねないことだ。マスコミ報道を信じた人心や社会の方向性の波は、司法の判断も動かしかねない。これがもし自分が冤罪で捕らえられていることを考えたら、恐ろしくならないか。マスコミはスポンサーの顔色を伺わず、もっと冷静に行動して欲しい。少なくとも判決前の事件を本人の映像を利用するならともかく、被告たちに似た顔つきの俳優を使って再現ドラマを放映するなどもっての他だ。
 重ねて断っておくが、管理人はマスコミの危険性を訴えているだけだからその点はご理解いただきたい。

■牛丼生中継(2004.2.16)
 このところ、「まさか」が多すぎる。まさか自衛隊が海外に鉄砲持っていくとは。まさか牛丼が販売中止になるとは。まさか新幹線が人をはねるとは。その他にも数々の信じられないことが起こる。安定、安全、安心という言葉が死語になる日も近いかもしれない。
 しかし、同じまさかでも、その話題性にばかり気をとられ、どれが重要なのかを見失ってはいけない。話題性と重要性は本来ほぼ一致するべきであるが、一般受けする(おもしろい)ことばかりが大きく取り上げられ、一般が興味を持たない政治的な問題は取り上げられない。国民が何を話題にするかが、最終的には国の方向を決めると管理人は考えるが、恐ろしいことに今やそれら順位を決めているのは、視聴率と発行部数第一主義のマスコミである。
  新人代議士の学歴詐称や吉野家の最後の牛丼生中継など、この国はどうなってしまったのだ。平時ならともかく、今は国内自衛であるべき自衛隊が、国際貢献の口実の下、他国に鉄砲や戦車を持ち込んでいるのだ。それなのにこの程度のくだらない話題ばかりが取り上げられていいのか。
 バレンタインなどどうでもいい。日本の国が平和を保てるのも、時間の問題かもしれない。このままでは「まさか日本が戦争をするなんて」、などとこのコラムに書く日も近いかもしれない。
 身近なところでは管理人の町のセブンイレブンとマクドナルドが一ヶ月の間に続けて閉店した。もちろんこのまさかは、日本の危機に比べればどうでもいいことだ。

■今年はどんな年?(2004.1.5)
 皆さん今年もよろしくお願いします。
 昨年はいろいろなことがありました。私事ではありますが、年の暮れに管理人の上司が在職のまま死亡するというショッキングなできごとがあり、これが一番残念でした。職場内の統括だけでなく人的緩衝剤の役割もしていたその人の死は、管理人の今後の会社人生も変えそうです。いつ会社を首になっても良いように昨年取得した、大型自動車一種免許ですが、案外早く役に立つかもしれません。
 世界の話題と言えば、何といってもアメリカがいつものように、どさくさ紛れに偽善的正義を振りかざしてイラクを潰した行為が挙げられます。日本はそのとばっちりで、自衛隊を兵隊として派遣するという前例をしっかり作ってしまいました。前例ができた以上は、今後世界で起こったあらゆる紛争において、その大小にかかわらず「派兵」することになるでしょう。危険な自衛隊への入隊希望者が減少し、これを補う名目で一般への徴兵制が復活すれば、現在10〜20歳代後半の人は戦地へ行かなければならなくなるかも知れません。
 さて、今年の管理人の予想は、セキュリティ元年です。BLASTERをはじめとする、感染の凶悪性に加えて、盲点をついた感染方法を示したウィルスの出現は、サーバやルータばかりを気にしていたセキュリティ管理を、クライアント端末(パソコン)にまで拡げなくてはいけないことを実証しました。こうなると利用者自身のセキュリティやライセンスの意識も改革しなければ対応できません。改革の年と言えば格好いいですが、無知な利用者に社会常識を覚えさせる年(相変わらず毒舌が過ぎるなあ)として、2004年を位置づけようと管理人は考えます。